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きらきらと音を奏でるように光って

KAT-TUNと私の15年間

KAT-TUN15周年おめでとう!

15年前の2006年3月22日、わたしは第一志望だった大学への合格も決まり新生活に向けて実家での残り僅かな自由きままなニートのような生活を送っていた日々のなか、どうしてもデビュー日当日に店頭まで自分の足でお迎えに行きたくて通っていた予備校そばのレコード店まで出かけた。

当時のわたしはまだ和也のファンになったばかりの、自分でいうのもなんだけど初々しいファンだった。デビューシングルはわたしにとってKAT-TUNを知るための「手段」のひとつだった。当時はKAT-TUNには紙媒体と時々TVで見かけるぐらいの情報量しか持っておらず、「ああこの人達絶対かっこいいんだろうな」と思ってはいたものの振り返ると受験生として崖っぷちだった時期に片手間で新しい推しを見つけたなりのキャッチングの仕方だったんだとおもう。あとあとカツン担として友人になった人たちにガッツリデビューから追いかけてきたはずなのにいろいろ抜け落ちている経験値を語ることはむしろわたしの持ちネタだと思っているのだけど、大学受験生として出会って、必修も多かった大学生が不器用にできる範囲で取捨選択してきた結果だから、わたし自身としては悔しい気持ちやもっと器用に出来たらという思いはあれど、自分なりにボーダーラインをきめてやってきたことはえらいなと思っている。

そんなわけで本格的にわたしの人生にKAT-TUNが参入してきたのは大学生になってからである。
3月22日に予備校そばのレコード店にはこじんまりした店舗内にこじんまりとデビューシングルのブースが作られていたのを今でも覚えている。先述のとおり、デビュー日当日はガチガチのオタクと名乗れるレベルではなかった(予備軍といったところだろうか)ため、予約していたのはアルバムとDVDも同パッケージになった限定BOXのみだった。それを新生活の荷物に詰め込んで、わたしは関西へやってきた。

大学時代は学校の徒歩圏内にレコード店があったため、4年間そのお店に通った。いちばん思い出深いのは2ndシングルの「SIGNAL」のリリース日のことで、それがそのお店で買った初めてのKAT-TUNのリリース物だったと思う。授業が終わったあと、スキップしたいきもちになりながら向かったのを覚えている。まだ慣れない道を歩きながら、向かう先にKAT-TUNが待っているとそわそわ浮足立っていた。

大学では前のめりで主張していたわけではないのだけど、昼休みに校内の書店でオリスタを買って飄々と教室で熟読するような一匹狼の学生だったため、自然とわたしがジャニオタであることは学科内で知れ渡っていったらしい。時々面識のない人から声をかけられたりすることもあったけど、だいたいなぜか初対面のときはNEWS担だと思われていてKAT-TUNのファンだと伝えると大抵驚かれた。当時のカツン担といえば大衆的にはギャルのイメージも強かったのかもしれない。

デビュー時のライブツアーは大学入学のタイミングとどっ被りだったため、YJが発足してからファンクラブに入会した。初めてKAT-TUNのライブに行ったのはデビューの翌年、2007年のツアーの大阪で、ちょうどじんくんが留学から帰ってきた直後だった。アリーナ席だったのだが、隣の席にやってきたのがオークションでチケットを買ったと意気揚々語りかけてくるじんくん担のギャルのお姉さんだったのが今でも忘れられない。最初のインパクトとしては良くも悪くも最高の思い出だった。開演前に買ったグッズも近くの通路にメンバーがやってきた拍子にそのお姉さんに揉みくちゃにされそうになり、憤慨した。それも含めてイメージどおりのカツンコンだった。当時のそのメンバーにもファンにも漂う「蒼さ」みたいなものがわたしはすごく好きだった。なんか、青春がぎゅっとそこに詰まってる感じがして。当時から、永遠には続かない刹那を駆けているみたいな空気感がKAT-TUNKAT-TUNのライブにはあったように思う。
あのお姉さん、まだじんくんのこと追っかけてるかな。もうオークションとか手を出してないといいな。

東京ドーム8日間連続の前代未聞の公演日程が発表された2009年のライブツアーは、それまで大阪でのみささやかにライブに入っていたわたしもさすがに東京に行かねばならんだろうという気持ちになった。一人で夜行バスに乗り、上京した。親に黙って上京したのも、一人で夜行バスに乗ったのもそれが初めてだった。
わたしは2日目と3日目のドームに入った。水道橋が毎日カツン担でお祭り状態の8日間は、関西へ戻ってきてからもネットでその賑わいを見ているだけでものすごい幸福感だった。駅からドームへ向かう道すがらで同担のひとりが出店のわたあめを買うみたいに、持っていない公演のチケットの譲りを目に留めてサクッと譲ってもらっていた様子は10年以上が経った今でも昨日のことのように覚えている。道中でその場にいた友人みんなで大笑いした。私が緊張で食事が喉を通らないというのをよそに、友人たちはじゃんじゃんスイーツを食べ、緊張でお腹がいたいと言うわたしを笑っていた。関西から同じように駆けつけた同担とドームの近くで会えたときは思わず名を呼んで駆け寄った。和也ともお揃いの、あのヘアゴムを互いに手首につけていて思わず見せあってまた笑った。あの時間は紛れもなく、青春の1ページだったなとおもう。


翌年の2010年にはいよいよわたしも社会人になった。新卒から数年は夜勤のある仕事をしていたので、夜勤明けにインテックス大阪へ行き、ボーッとした頭で2メートル手前にトロッコでやってきたたぐちくんを見たのは忘れられない。
インテックス大阪での公演中は、じんくんが帰ってくるのかわからないタイミングだったとおもうけど、5人が横並びした背中を今でもずっと覚えている。

2011年、コンビナートで野外ライブをすると報道があり、わたしの心は沸き立った。
だが、そのビッグプロジェクトは幻となってしまった。
この年、シングルリリースはコンスタントにあったものの、5周年のお祝いは特にされず静かに過ぎ去った。


2013年。
じんくんがいなくなってからいつも熱い気持ちを届けてくれていた人がその年の秋、突然いなくなった。

KAT-TUNはすぐに4人での動き方を模索していった。
年末の京セラドームでのカウントダウンライブ。
メンバーの謝罪から始まったけれど、ひとつの爆音と同時に4人のKAT-TUNの魅力が溢れ出た素晴らしいライブの時間だった。
クライマックスの「PHOENIX」の演出の気迫たるや。
メンバーの、絶対に譲らない「KAT-TUN」をこれでもかと見せつけられてただただ圧倒された。

2014年、4人になって本格的に始動。少プレのMCに抜擢され月1でカツンがTVでじっくり1時間見れる幸せ。そして夏のライブツアー「come Here」。この年はとても熱い夏だった。グッズを買いに行っただけで日焼けをし、汗だらだらになったあの夏忘れらない。

2015年、KISSKISSKISSのリリースイベントで初のファンミーティング開催。当たらないだろうけど後悔しないように応募だけはしておこうぐらいのきもちで応募してまさかの当選、しかも初回が当たってしまいびびる。ファンミ自体はいつものゆるゆるぐだぐだ「ファンミとはなんぞ?」のノリで終了してホッとしたものの、帰りにハイタッチして退場ですよとのアナウンスがあり硬直するわたし「いやまじ普通に帰らせて」。列に並んでいる間、少しずつ見えてくる上田くんのサイボーグみたいなビジュアルの片鱗に硬直が度を増していく。拝顔するなんて恐れ多すぎて、事務所のおねえさんたちに背中を押されながら猫背になって手だけ合わさせていただきそそくさと退場した記憶。和也くんいますぐ手をアルコール消毒してほしいですと願いながら外に出ると、この日のためにめいっぱい着飾ったのであろう女の子たちがあちこちで大号泣していた。初回でサプライズ状態だったからだ。それは本当にあの回に参加した人たちだけの宝物の記憶になったんだろうなとおもう。感謝。

この年も年末にかけて色々あった、、、あの発表の瞬間は頭が真っ白になった。まっさきに思ったのは「KAT-TUNが無くなったらどうしよう」。あの日の和也くんのマイクを持つ手が震えていたのは後日、本人からどんなに「正確に伝えなければと緊張していただけ」だと教えてもらっても忘れることが出来ない。あの日の大切に守りたかったものが砂のように手から零れていってしまうような感覚は一生拭えないと思う。だからこそ、より今という一瞬を大切にしたいというきもちも充電期間という選択をした彼らに対して抱くようになった。

2016年、10ksコンは3都市全て行くことが出来て、後悔なく「待ってるよ!」って言えるきもちで見届けられたと思っている。
オーラスの東京ドームの空気感も一生忘れられないな、、、


2018年、充電期間が明けて帰ってくるとカウコンで井ノ原くんと太一くんが紹介してくださって、3人の揃った姿が目に飛び込んで来た瞬間、大号泣。わたしの心のどこかに、確実にKAT-TUNにしか埋められないピースがあるのだと改めて実感した瞬間だった。そして、4月、充電明けの東京ドーム。中丸くんが声高々と「充電期間を終了しました!」と宣言してくれて、「おかえり!」と胸をはっていえる喜びにつつまれた。



ここ最近、ずっと思っているのがKAT-TUNはグループの名称であると同時に動詞なんじゃないかってこと。
わたしはよく「KAT-TUNKAT-TUNしてる」と言うが、実態がどんなに変動してもKAT-TUNの持つ特性、個性はずっと揺らいでいない。むしろ実態が変動していくなかで、なかのひとたちはそのときどきの構成で「どのようにKAT-TUNたるべく存在していくか」を追求し続けている。移ろい続けているように思われるかもしれないけど、KAT-TUNの根本にある義は何も変わってないし、それはなかにいるひとたちが「KAT-TUNはこうあるべき」を理想高く探り続けてきた結果なんだとおもう。「このメンバーが揃えば自然と(グループ名)になるんだよ」っていうグループもそれはそれでとても素敵だとおもうが、KAT-TUNはメンバーのそれぞれが「KAT-TUNのメンバーの自分」のスイッチを持っていて、グループの仕事をする時、必ずそのスイッチを入れているような感覚だと思っている。昔はその感覚が不思議だったり、寂しく感じるときもあったが、今はそれだけ「KAT-TUN」というものが、メンバーそれぞれにおいて汚したらいけないようなところにあるもので、それはやっぱりそれだけグループを応援してきたファンを大切に思ってくれているからなんだろうなと思っている。だからよりグループとしての見せるものに対して、こだわって、質の高いものを提供してくれるんだと思う。

そのスタンスが今はとてもうつくしいな、かっこいいなと思ってるし、彼らがファンを大切にしてくれているように、KAT-TUNを守ってくれた3人にわたしはとても感謝している。





15年を振り返るとどんな時にもわたしのこの15年間にもKAT-TUNがいて、KAT-TUN抜きにわたしの人生も語れなくなってきた。
思えば出会ったときは和也くんばかりに夢中で、メンバーそれぞれを知って好きになっていったのは本当にデビューして以降だった。どんな時もこちらから手を離そうと思えなかったのは和也くんがそこにいたからなのは大前提としても、やっぱりKAT-TUNが「KAT-TUN」を護ろうとしてくれていたから、それに尽きると思っている。

これからも誇り高く、君たちが信じるKAT-TUNを貫いていってください。

15周年、本当におめでとうございます!


【3月22日18:00生配信!】15TH ANNIVERSARY LIVE KAT-TUN【Johnny’s net online】